2020年08月11日

あの子は甲子園へ行ったでしょうか

高校野球交流試合が始まりました。
死ぬ思いで全てを甲子園にかけて、真っ黒になりながら練習を
重ねて来た球児たちが、コロナで今年は高校野球は中止となりました。
その発表を聞いた球児たちの目から大粒の涙がこぼれたのを見たのはまだ記憶に新しい。

無観客だが、一試合だけでも甲子園へ行けるようになりました。
野球にあまり興味のない私でも嬉しかった。
勝っても負けても憧れの球場の土を持ち帰っていた今までの試合と違って、今回は後ほど学校宛てに送ると言う。
学校であっても、選手全員の手に少しづつでも行き渡ると良いなと、自分の様に思った。



小学校6年から中学2年まで住んでいた岐阜県の美濃市を思い出した。
私が多感な乙女?時代を過ごした唯一長く暮らした街であるが、
親しい友達も出来て、その交流は長良川で泳いだり、
お誕生会に初めてお呼ばれしたり、そのお友達はいわゆるお譲様がたでした。

美濃と言えば「美濃和紙」です。
その会社の○○さんのご令嬢や、昔からの○○さん(会社)のご令嬢でした。

楽しい思い出の詰まった街へ行って見たい。
夫が亡くなってふさいでいた頃、無性に行きたくなった。
マイカーで一人の友人を誘って訪れた宿場町は
昔と変わらぬ町で美しく保存されていました。

保存された宿場町以外は変わってしまい、
私達が住んでいた家も分からなかった。

友人宅を訪ねました。
知らない全く関係のない住人でした。
現在は普通に暮らしている、住人の方は先住の友の家族の事をご存じだった。
お店を畳んで知多半島の方で、どなたかがお住まいだと聞いた。
「こちらへ問い合わせれば、お尋ねの方の所在が分かるはずです」と
「電話番号を教えましょうか」と言われましたがご辞退しました。

お話を聞けば、知らない方が良いような気がしました。
それは、お店が決して良い畳み方で無かったようなのです。


そしてもう一軒、元の同じ場所に同じ家屋が建っていました。
昔の面影がありますが手を加えられきれいに保存されていましたが
代が変わり、「分からない」と言われました。
そうよネ。60年も70年も昔の事ですから。

では学校へ行って見よう。
一緒に行った友人はつまらなさそうにしていましたので
喫茶で待って貰う事にした。

だがいくら田舎の町でも半世紀も昔の事なので
学校に辿り付けず、丁度通りかかった小学校3年生くらいの男の子に聞いた。

「細い道がクネクネだから分かりにくいから僕が連れって上げるよ」と言う。
「僕の家は何処なの?」
「すぐそこのクリーニングやだよ」
「じゃお母さんにお断りしたいから、案内して頂戴」と言う事でお尋ねしました。
事情を話して男の子をお借りした。


くねくね道は、区画整理されて無く、
次々昔のままの土地で立て替えられた家並みで分からなかったのであった。

やがて懐かしい校舎が見えて来た。
小学校と中学校が並んでいます。
運動場が広く一連になっています。
校舎こそ新しくなっていたが昔のままであった。
桜の木も同じところに並んでいましたねぇ。
感慨深く佇んで眺めました。


待ってもらっている友の喫茶店へ男の子と一緒に戻った。
「僕ジュースがいい」と屈託のない笑顔が印象に残っている。

「おばちゃん何処から来たの?」
「大阪よ」
「甲子園のある所?」
「甲子園は兵庫県だよ」
「ふーん、僕の夢は野球がうまくなって甲子園へ行く事なんだ」
「そうなんだ。がんばって行って!
おばちゃんに知らせてくれたら応援に行くよ」

「じゃおばちゃんの住所教えて」
「いいよ、僕の住所も教えてね」
メモを出して住所の交換をした。

それから、お母さんにお礼を言って帰阪し、
お礼状と共に大阪名物を発送した。

するとお母さんの手紙に同封されて、僕の名はS君と言う名で手紙が来た。
「又来てね、今度は食いだおれのお話聞かせて下さい」
と書かれお母さんからは
「毎年初冬に和紙で作られた「灯りの祭典」があり、
町並は幻想的で美しいですから是非観に来て下さい。
パンフレットが出来たらお送りします」とあった。

それからパンフレットもわざわざ送って下さりS君からは
「中学生になって野球部で頑張っています」の手紙が最後でした。
放課後の野球の練習はきつく、きっともう手紙を書く時間が無かったのだろう。

甲子園には行ったのだろうか。
行ったなら手紙があったかも・・・・・・・ありませんでした。

もう彼も20代後半になっているはず。

美濃市と言えば「うだつの町」
うだつとは隣と隣を繋ぐ屋根で、その大きさに依って
その家の格というか裕福さが分かる、と言われています。

「うだつが上がらない」と言う語源はここからだときいた。
因みに歌手の「野口五郎」さんは私の後輩でもあった。

お祭りにはトラックに紅・白の幕をはり、のど自慢大会がありました。
楽器はアコーディオンだけでした。
野口さんも参加して居たでしょう。

高校野球から懐かしい思い出にふけりました。





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onntigawa at 11:10|PermalinkComments(5)思い出 

2020年08月10日

寂しいと言えばきりがない

昨日は沢山の方のご訪問を受けまして、ありがとうございました。
「団塊の世代」ともなれば、「ひとり暮らし」の方が多いのでしょうね。
私は、ひとり暮らしにも年季が入りましたが、或る節目、節目に
「何故そんなに急いで、あの世へ逝ってしまったのか」と墓の前で
夫を責めています。

生まれて来た命は早かれ遅かれ亡くなるものです。
一緒に逝ける人など事故以外にないと思います。

そこで老後はやはり、気心知れた友人が一番良いですね。
子供達との会話もそれなりに新しい情報元となりますが、
同世代の友人との話題が共通していて一番楽しい。
これが良いのです。
今は演歌が下火ですが私達の若い頃は、歌謡曲と演歌が流行っていました。

会社の慰安旅行などもカラオケなどなく、
観光バスの中で只マイクを握り締めて唄っていましたねえ。

グループで飛んだり跳ねたりの歌は果たして上手なのか下手なのか分からない。
なぜなら心臓も踊っているのに、声がしっかり出ているのだろうかと思うからである。

これは唄えないお婆さんのセリフ。

この三連休もひっそりと、只ひっそりと
箪笥の整理やカーテンの洗濯などして過ごすのかと
誰からもお誘いもないし寂しいな~と思っていた所へ
突然前触れもなく長女夫妻がワンコ連れてやって来た。

布製のマスクが暑いので上向きのオープンのプラスチックのマスクが
手に入ったので持って来たと言う。何と言う名前のマスクだろうか。
何もかいて無かった。

珈琲と娘が持参した菓子パンで、休憩した。

それから、私が行きたかった、
「国華園」と言う野菜や果物、花類、食品などが売られている
規模の大きな店へ連れて行って貰った。

見た事もない変わった尿ビンの形をした花を見た。
お盆で切り花売り場は大勢のお客さんで賑わっていた。
この日も35度の猛暑だった。

5時半閉店と言う事で2時過ぎに出かけた。
少しの食糧とお菓子、植木鉢を買った。

行きがけに、運転する婿が唐揚げ屋さんを指さして
「あの店の唐揚げ弁当は、有名で美味しいんですよ」と言う。

「じゃ~お弁当を買って帰ろう」と私が言った。
ひとりご飯になりましたがお弁当は美味しかった。

唐揚げ大好き!

どこかの店で食事をとって帰るつもりだったが
シナモンを置いて行ったので早く帰る事にしたのである。
これは予想外であった。


3連休なら誰かが来てくれるか、誘ってくれると信じていた。
娘達の家から、車で10分と2分ですからネ
強がり言っても、心のどこかで期待している自分が居た。

コロナで外出自粛で、する事が沢山有るが
家族が三連休で誰も来てくれないって寂しいじゃないですか。

時々本音を吐露する。
寂しい寂しいは余り言いたく無い。
言い出したらきりが無いしょ。






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onntigawa at 10:21|PermalinkComments(8)おひとり様 

2020年08月09日

ひとりご飯は涙の味がします

8月7日は夫の命日だった。

長くお付き合い戴いているブログ友さんから
「一人暮らしの26年間にはいやな事もあったのでしょうね」
とコメント戴きハッと振り返りました。

個人事業を小さいながら興しておりました。
順調に発展して居て、従業員は内職さんも入れて25人ほどだったでしょうか。
夫亡きあとは
後継ぎ問題で悩みました。
2年間病気の為に職場を離れた夫の後はシッチャカメッチャカでした。

訳の分らぬ請求書がどっさり舞いこんだり、
注文が半分に減ったり、勿論売り上げも減りました。
生活が掛ったパートさんや内職さんに出来るだけの保障をしてあげて工場は人手に渡しました。

住宅も工場と同じ敷地内にあったので、同時に処分しました。

阪神淡路大震災のあったすぐ後でした。

残務処理は大変だった。

食欲もなく夕方になると車で近くのファミレスに行って、
枝豆のおつまみと中ジョッキがたった一人の夕飯でした。
涙がとどめ無く流れました。
人様に見られたくないのでうつむいていました。
はた目には、なんとも陰気に写ったことでしょうね。

娘二人は成人して、独立していましたので、
それがせめての慰めだったのでしょうか。
子供達が生まれた土地に家を買っていましたので、
娘二人は職場の関係上ここに住んでいました。

私も荷物の整理して移りました。
母娘3人の生活が始まりました。
3年間は、ぼ~と過ごしました。個人事業ですから国民保険です。
国民保険は遺族年金がありません。
僅かばかりの一時金を頂きました。
夫が独身の間勤めていた会社の厚生年金が少しあるだけでした。

私もまだ年金を頂ける年では有りませんでした。
蓄えを崩して、生活していました。

寂しさに紛れて無茶苦茶使いました。
生命保険が、なにがしら入りましたが、そのうちの1千万のお金が消えるのに2年掛りませんでした。
その上せめて娘たちの結婚式は、恥ずかしくないものにしたい。
そう願ってそれなりの形で行いました。
夫が汗水流して溜めたお金と、命との引き換えの生命保険も
ふと我れにかえった時、自分は いったい「何をしてる」のだろうと思った。

寂しさにまぎれに海外旅行など誘われるままに出かけた。
心の中は大きな穴が開いていますから、スイス、フランス、カナダ、ドイツ、トルコなどなど
廻っても記憶にあまり有りません。心は癒されて居ませんでした。



そして、これではいけない。
計画を立てて大切にお金を使おうと反省しました。

子供達に迷惑を掛けないように無駄使いしないように今は大切に使っています。
臨時出費がなければ、何とか自分の年金で暮らせていけます。


実家の両親も早く亡くなり兄弟姉妹は兄が42歳で、弟が48歳で亡くなりました。
妹が一人いるだけです。

可愛がってくれた叔母も一昨年亡くなって私には頼りに出来る人はいません。
だから可愛げのない強い女になったのかも知れません。

何でも一人でこなし、一人で考えて、夫亡き後 まる25年生きて来ました。
男の子が居たらもう少しは、気分的にでも楽だったでしょうか。

ひとりご飯は涙の味がします。

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onntigawa at 10:27|PermalinkComments(6)おひとり様 

2020年08月08日

お一人さまの夕ご飯、これでもご馳走です。


公共料金の少なさにビックリしました。
ガス代は、先ずお風呂はシャワーにかわり、カラスのシャワーであり、
ガスを使って、お料理する機会が少なくなりました。

水道はこれもシャワーに変わり浴槽の水が節約され、
長梅雨で畑の水やりが無かったのが大きい。

電気代は夏と冬は万超え。

暑さ寒さに本当はとても敏感で弱いのですが
最近は年の精か鈍感になった。

だが高齢者の、この体感温度が熱中症を招き毎年何人かの死亡事故があります。
倒れても誰にも発見されない、一人暮らしには不安です。
そこで一日中点けています。
猛暑続きでなので、夜間だけ2時間タイマーで休んでいます。
これで朝まで眠れる。

なので汗はあまりかきませんが、水分補給が年中通して少ないのです。
一つしかない腎臓の為にも先生にいつも「もっと水分を」と言われます。
摂れにくいのである。摂れにくいと言うより体が要求しない。
そこで牛乳の嫌いな私は濃厚牛乳を飲むようにした。

少しはマシかと考えていますが、果たして?


昨夜はナスの揚げ浸しを作った。
旨く色が出なかった。

ひとりでテレビを見ながら摂る夕食なんて、お腹さえ膨れたら、何でも良いのです。
美味しい物が食べたくなれば、外食すれば良い。
そんな、ずぼらな考えが時々起きる。

何故か昨日は作る意欲が湧いた。
その結果です。

画像の上でクリックすると拡大します。
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赤魚の煮付け
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ナスとピーマンの揚げ浸し
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紫色が出ない。
可笑しいな~再度挑戦して見るつもりです。

もう26年こうして一人暮らしをして居れば寂しいとか、何とかは無いですが
この日は夫の命日でした。
お供えをして、気持だけ二人で乾杯!



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onntigawa at 09:52|PermalinkComments(6)料理 

2020年08月07日

原爆投下は日本に知らされてなかった

広島の原爆投下からもう75年を迎える6日に、
毎年のように、広島の平和公園で式典がおこなわれた。

今年は、コロナもあって規模は縮小されたと言われるように
なんだが寂しい式典であった。

毎年一万人の被爆者が亡くなられると言う。
今全国の被爆者は13万6682人で平均年齢は83.31歳だそうです。

当時私は、岡山のかた田舎で5歳になる少し前だった。
暑くていやだったが、綿の入った防空頭巾をかぶせられて、洞穴(防空壕)に逃げていた。
大人たちのざわめきの中で、それでも大変な事が起こったのだと思った。


私の友人は「大阪上本町で死体を跨いで母を探した」と言っていた。
「お譲ちゃんお水ちょうだい。と何人にも足をつかまれた。」とも。

テレビや新聞で良く聞いたが、実際に経験した友人の話には胸がつまった。
そして知人の4歳年上のHさんは、亡くなった父をリヤカーに乗せて
「火葬場まで引いて行ったが、順番がなかなか廻って来ず一人で暗い夜を、物言わぬ父と過ごした。」
と言うことも聞いた。

テレビで原爆の話題が流される度に、一人の少年が、
妹か弟か分からないが背負って、焼け野原で立ちすくんでいる姿が映しだされる。
火葬の順番を無表情に待っているんだ、とも聞いた。
だが、しっかりした表情をしている。
テレビ局は、今この少年を探しているそうだ。当時7・8歳だろうか。
今までご存命なら83歳ぐらいになって居られるでしょうか。

15才で大阪に父の転勤で移った時、
今ある大阪城近くの京橋当たりは焼け野原で、
鉄骨だけになってしまった軍需工場が幾つもあった。

大阪駅構内は、終戦10年も経っていたが浮浪児が沢山物乞いをしていた。
大阪駅前は、「我先にバラックを建てたものが勝ち」、と言う具合に家と言うには
程遠いが雨風がしのげるバラックが、所狭しと並んだ。


JR大阪駅から阪急百貨店にわたる信号の傍らで、せっせと靴磨きをする少年をみた。
2.3人居たように記憶する。
大人がいたからきっと見習いか何かで働いていたのだろう。
勿論ご飯代を稼ぐため。
私は「戦争で親を亡くした子なんだ」と見る度に胸があつくなった。

「アニメ映画、ホタルの墓」を2度見た。
全くあのような内容の事を見たり聞いたりした。


戦争はしてはいけない。
絶対にいけない。




~~~~~~~~




今年は離れて住むお爺ちゃん、お婆ちゃんに会えない子供達が可哀そう。
コロナは留まるところ無く蔓延して、世界中を恐怖に陥れている。
私も今年のお盆はジッとしているつもりである。

墓まで行くには、遠過ぎる。
実家の墓は先月紫陽花の頃に長女夫妻とシナモン連れて言って来たので
さほど気に掛らないが夫の墓が気になる。

そこで思い出した。昨年実家の墓参りしたときの写真である。
確かに、遅咲きの蓮の花が僅かに咲いていたはず。

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久安寺の日本庭園の一部

写真で、まじまじ見つめると確かに蓮の葉は大きい。
こんな大きな葉をどうやって描くのか、瞬間思いもよらない。




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onntigawa at 10:44|PermalinkComments(0)日記